
沿革
浄土真宗本願派 妙高山 最勝寺
本尊は阿弥陀如来である。
当寺創立は、越前(福井県)田野最勝寺文書に「清和天皇十五代の末孫伊予守源宗政が貞永二年(1233)上洛して親鸞聖人に帰依し直弟となり、法名を専修と言い性は多田と称して一宇を建立した」とあるように摂津国多田庄(兵庫県川辺郡)に一宇を建立したのが始まりである。
郡上での一向宗寺院としての活動は、郡上九ヶ所門徒道場などで以前からなされていたが、延徳元年(1489)九世専宗の時、美濃国郡上郡島村(郡上八幡)に最勝寺の道場堂宇が建立された。
永禄九年(1566)十一世専賢の時、郡上をめぐる合戦による兵火のため市島の堂宇、宝物などすべてを焼失し、隣の川佐村に移転したことがあった。
その後、十二世専勝の時、越前国大野郡(福井県大野市)へ移ったが、寛永元年(1624)十三世専常の時、世継ぎの都合により最勝寺は三つに別れ、その一つが郡上八幡に建立されることになった。他の二つは、福井県大野郡上据村(かみしがらみむら)の最勝寺(本願寺派)と同県大野市明倫町の最勝寺(大谷派)である。
その後、寛文五年(1665)に郡上八幡の六代城主遠藤常友の城下町整備に伴う政策により現在地(八幡町赤谷山本)に寺領を与えられ、現在に至っている。現住職で二十五世の法灯を継承している。
特に二十一世専浄は、嘉永元年(1848)に、舟橋行照について宗学を修め、仏教大学講師・明治四十一年(1908)本山勧学職を勤め、宗門の進展に寄与された。
最勝寺門徒は、白鳥、大和、八幡、美並、明宝、和良の郡上郡内各町村を主に、益田郡金山町など県内外にも広く及んでいる。
境内には、本堂(間口七間三尺・奥行き八間)・庫裡・鐘楼・山門・経堂・太鼓堂・書院・門徒会館がある。また、同寺住職が経営する妙高保育園・妙高幼稚園が隣接されている。
平成十四年 十月


